青木宣親を紐解く15の家族物語 | 妻&子供と切り拓いたメジャーの夢


出典:「https://www.nikkansports.com/」

青木宣親選手がカリフォルニア州オレンジ郡の人気ビーチタウンに購入した “豪邸”。その驚きの内容とは。
6年間で7チームを渡り歩いた青木選手。メジャーで移籍するたびに、妻の佐知さんが「大変だった」と語る “意外なコト” がこの住宅を購入する決め手になったのかもしれません。

 

青木選手のメジャー挑戦。そのスタート地点は、ミルウォーキーでした。
日本の人が少ないという街での食生活とは、一体どういうものだったのでしょうか。

今回は、そんな青木選手が切り拓いたきた “野球人生”、そして妻の佐知さんと2人の子供たちと切り拓いた “メジャーリーグの夢” を『15の家族物語』と題して紐解いていきます。

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年俸で親孝行!年俸推移に見る青木宣親の軌跡とは


出典:「https://mainichi.jp/」

青木選手が2003年のドラフト会議で指名された順位は、4位。
今の青木選手を見ると低い評価に思いますが、当時はそれほど期待を受ける選手ではありませんでした。
選手の評価は年俸で決められるものですが、その最初の年俸は1000万からのスタート。
そこからヤクルト在籍8年間の年俸推移は、こちら。

2004年→1000万(ヤクルト)
2005年→1000万(ヤクルト)
2006年→7000万(ヤクルト)
2007年→1億4000万(ヤクルト)
2008年→2億2000万(ヤクルト)
2009年→2億6000万(ヤクルト)
2010年→2億8000万(ヤクルト)
2011年→3億3000万(ヤクルト)

1億円プレーヤーになった2007年には実家を両親へプレゼント。
老後に両親が足腰が弱くなってからも不自由がないように平家にしたのだそうです。

 

さらに、2011年オフには、ポスティングシステムを使って念願のメジャー挑戦。
その評価は、実績とは裏腹に3分の一以下に。
それでも海を渡って、6年間でその評価は6倍に。

2012年→1億(ミルウォーキー・ブルワーズ)
2013年→1億2500万(ミルウォーキー・ブルワーズ)
2014年→1億9500万(カンザスシティ・ロイヤルズ)
2015年→4億(サンフランシスコ・ジャイアンツ)
2016年→5億5000万(シアトル・マリナーズ)
2017年→5億5000万(ヒューストン・アストロズ、トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・メッツ)

ドラフト4位の評価だった青木選手が上位の選手たちを追い抜いて、メジャーで活躍するまでの選手に成長するまでにどのような紆余曲折があったのでしょうか。
そして、2018年シーズンからはヤクルトスワローズに復帰。

2018年→3億3000万(ヤクルト)
2019年→3億3000万(ヤクルト)

しかし、その復帰前の12月に購入していたのが、カリフォルニア州オレンジ郡ニューポートビーチの豪邸でした。

 

単身赴任でヤクルトへ!?人気ビーチタウンの豪邸


出典:「https://www.zaikei.co.jp/」

青木選手が日本へ移籍が決まる直前に購入した自宅。

2017年シーズンにはアストロズ、ブルージェイズ、メッツを移籍した青木選手。
アメリカ東海岸を南部から北部まで、本拠地を転々と移動していたのは、さすがに大変だったからでしょうか。
青木選手は、「住みやすい」と言われるカリフォルニア州オレンジ郡ニューポートビーチに自宅を購入していたのです。

 

2億7000万の住宅だったそうで、”これからもアメリカを本拠地にしていくために拠点を決めて家族も落ち着こう” という意思の表れだったとも思います。
このビーチタウンは、大谷翔平選手が生活しているロサンゼルスからも車で約1時間という距離で、人気の立地なのだそうです。

 

この建物は、中古物件を改修した物件で、建物中心部には開閉式の天井も。
ベッドルームとバスルームが4つに暖炉、プール、ジャグジーなど、機能も充実した自宅です。
6年間で7チームを渡り歩いた家族、そして自分自身への感謝も込めてのものだったのかもしれません。

 

まるで “青木宣親ミュージアム” !? 宮崎県日向市の両親へプレゼントした “平屋の実家” とは


出典:「https://twitter.com/」

青木選手の出身は宮崎県日向市。
2007年に青木選手が初めて1億円プレーヤーになった年に、両親へプレゼントしたというのが、平屋の自宅です。
以前テレビでも放送されていましたが、その内観は少し変わっていて、野球選手の実家ならでは、という感じ。

 

玄関を入ると、まるで “青木宣親ミュージアム” というような青木グッズの数々が両側の壁に展示されています。
それも、家具として展示棚を置いているのではなく、作り付けで飾るスペースを設計段階から計画したようなかんじになっています。
首位打者やベストナイン受賞時の品や、WBC優勝の時にイチロー選手発案で作ったというグッズまで100点をゆうに超える数の品々。

 

父・人志さんが、青木選手が獲得した経歴を展示するためのスペースを作ったのだそうで、「本人がいただいた時に、全部自宅に直に送ってくるもんですから」と話していました。
展示したのを初めてみた青木選手は、こんなにもらっていたのかという不思議な顔をしていたのだそうです。
青木選手自身も何かを受賞する度に立ち止まっている余裕のないほど、一生懸命に走ってきたのかもしれません。

 

ヤクルト2軍時代から青木宣親の母・香澄さんが集めてきた “意外なもの” とは


出典:「https://baseballking.jp/」

しかし、その展示だけでなく、母・香澄さんが青木選手のヤクルト入団時から集めてきたものがありました。
それは、青木選手の新聞記事。
香澄さんは、人志さんが新聞を読んでいて息子の記事を見つけると、それらをカットして残しておいたのだといいます。

 

青木選手は1年目はずっと2軍にいましたが、その頃に書かれた記事は小さなもの。
香澄さんは、記事の大きさが少しずつ大きくなって行くのが不思議だったのだと話していました。

 

これだけの記録を作ってきた青木選手ですが、もともとは無名選手。
そんな光の当たらないところから、どのようにしてトップ選手にまでなったのでしょうか。
ここからは、その紆余曲折あった青木選手の成長物語を紐解いていきます。

 

もともと左バッターではなかった!?青木宣親の2人の兄と幼少時代


出典:「https://www.nikkan-gendai.com/」

青木宣親選手は二人の兄をもつ末っ子。
小学生時代は、兄の野球を見て育ったのだといいます。

 

そんな青木選手に、小学5年生の頃に転機が訪れます。
それは、右打ちから左打ちに変えたこと。
今では左バッターでおなじみの青木選手ですが、当時は右打席でバットを振っていたのだそうです。

 

打ち方を変えた理由は、当時はイチロー選手や松井秀喜さんのような左バッターのスター選手がたくさん出てきた時期だったこと。
青木選手は足が速かったこともあって、一塁に近い左打席に立つようになったのだそうです。

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青木宣親の日向高校時代の意外な目標とは


出典:「https://baseballking.jp/」

無名の存在だったという青木選手の日向高校時代。
青木選手は、ある目標があったのだといいます。
それは、東京6大学リーグの名門・早稲田大学で野球をしたいというもの。

 

早稲田大学の野球部は各高校の有望選手をスカウトで集めている中、甲子園出場もなく、無名の選手だった青木選手は学業で進むことに。
青木選手の高校時代の成績は、5段階で平均4.6。その内申点の高さが評価されて、指定校推薦に内定。
早稲田大学へ野球推薦で進学する人はごくわずかですが、学業の推薦で進学する人もほんの一部の人で、青木選手の当時の学力の凄さがわかります。

 

全く期待されていなかった!?青木宣親が早稲田大学で経験した挫折とは


出典:「https://spolabo.com/」

念願の早稲田大学の野球部へ進んだ青木選手。
しかし、そこで挫折を経験することになります。

 

高校まで、野球が好きだったものの、「あまり一生懸命野球やるような感じではなかった」という青木選手。
そこから名門の早稲田野球部へ進んで、一日中練習をするという環境についていけない感じもあったのだといいます。

そんな当時の青木選手はチームにとっても構想外だったのだそうで、当時監督をしていた野村徹さんは、「正直なところ社会人野球へなんとか送りたいなあ」と思っていたのだそうです。

 

「辞めたいと思っていた」という青木選手は、当時九州の地方大学でラグビーをしていた兄へその旨を電話で伝えたのだといいます。
すると兄から「はっ」とさせられる一言が。
それは、「お前の置かれている環境は恵まれているんだぞ」という言葉。

 

ラグビーは地方と関東などではレベルの差があるため、地方のリーグではそういう中でプレーするしかない。
一方で、青木選手がいる早稲田大学の野球部は大学野球のトップレベル。
その環境は恵まれているということを教えられたのだそうです。

 

青木宣親が深夜に行なっていた “秘密の練習” とは


出典:「https://twitter.com/」

青木選手はある日、母・香澄さんへ連絡したことがあったのだといいます。
そのときに母へ伝えたことは、”鳥谷敬選手が前にいる。いつか追いついて、追い越したい” ということ。
当時、チームメイトだった鳥谷選手は大学野球でもトップ選手でした。

 

それから青木選手は野球部の全体練習が終わった後に、深夜までバットを振り続けたのだといいます。
チームの中心にいた “甲子園組” に見られないように隠れて行なっていたそうで、それを毎日継続。
3年生のリーグ戦で、初めてレギュラーを勝ち取って活躍。その秋には東京6大学リーグの首位打者を獲得。
入学時の “構想外” という立場からは考えられないほどの成長でした。

 

この、”来る日も来る日もバットを振り続けた” というエピソードは、急成長する選手に度々聞く話でもあります。
多くの選手は全体練習の中で一生懸命練習していますが、練習後や休日など他の選手が休んでいる時間にも練習に取り組み続けている人たちです。
こういう練習は一日では変わらないかもしれませんが、青木選手のように1年〜2年という長さで取り組んでいくと大きな変化になっていくのかもしれません。

 

青木宣親のプロ野球人生を切り拓いた “一通の年賀状” とは


出典:「http://bunshun.jp/」

チームの中心選手として活躍をした青木選手でしたが、ドラフト会議の指名は4巡目。下位指名選手としてプロ野球選手としてのスタートを切りました。
そんな青木選手が転機を迎えたのが、1年目のオフのこと。
「自分の熱い気持ちを知って欲しくて」と当時の監督・若松勉さんへ年賀状を送ったのだといいます。

 

そこで書いたのが、「僕を使ってください、必ずチームに貢献しますから」という内容。
1年目はずっと2軍で練習していた青木選手は、1軍の監督と会う機会がなかったのだといいます。

 

そして、そのあとの春季キャンプで若松さんから、「今年はお前で行くから」と言われたのだいう青木選手。
その年に200本安打を記録。青木選手はこのとき「これでこの世界でやっていける」という思いが出て来たのだと振り返っていました。

 

青木選手が年賀状を送ったときには、大学で全体練習後にバットを振り始めてから4年ぐらいが経っていたのでしょうか。
2軍で力をつけていたら、遅かれ早かれ一軍に呼ばれるものではあると思います。
しかし、監督との相性やその時々のレギュラー選手の状況などタイミングもあります。
そんな中で青木選手が2年目から活躍を始めることができたのは、毎日の取り組みとこの年賀状は大きかったのかもしれません。

 

「家族はチーム」!?妻&子供と切り拓いたメジャーの夢


出典:「http://news.livedoor.com/」

青木選手が結婚をしたのは2009年のこと。その相手は、当時テレビ東京のアナウンサーをしていた佐知さん。
その出会いは佐知さんが担当していたスポーツ番組の取材だったのだそうで、青木選手は「初めて会って15分後ぐらいに電話番号聞いていました」と取材が終わった15分後に先輩を通して連絡先を聞いていたのだと言っていました。

 

初めは「なんて軽いやつなんだ」と思っていたのだと告白していた佐知さん。
それでも半年経った頃に、青木選手に会うことにしたのだといいます。
この頃には、すでに青木選手のメジャーリーグの夢についても聞いていたのだと話していました。

 

そんな佐知さんが以前、あるインタビューで、家族について語っていたことがあります。
その内容は、”家族はチーム” ということ。自分自身が食生活などで支えて、2人の子供達が癒しや元気を与える。
佐知さん自身も元々は水泳選手というアスリートだったこともあって、こういう “チーム” という意識が強いのだと話していました。

そして佐知さんのこの考え方は、青木選手のメジャーリーグ挑戦で、なくてはならないものとなっていきます。

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アメリカを横断!?移籍する度に大変だった “あるコト” とは


出典:「https://www.sankei.com/」

青木選手のメジャーリーグ挑戦で特徴的なのが、6年間で7チームを渡り歩いたこと。
大都市ではない規模のミルウォーキーから始まって、大都会のニューヨークも経験。
アメリカ中心部のカンザスシティから東海岸南部のヒューストン、東海岸北部のトロント、西海岸のシアトル、そして西海岸南部に近いサンフランシスコまで、アメリカの端から端までを6年間で渡り歩きました。

 

以前ある番組で、青木選手と妻の佐知さんが大変だったことは、チームが変わるたびに行なっていた “物件探し” だったのだと話していたことがありました。
その様子が放送されていましたが、まずはグーグルマップで新居の候補探しから。
ストリートビューで外観をチェックして、近くにスーパーがあるかどうかチェックしていくのだと言っていました。

 

日本のプロ野球に比べてメジャーリーグは移籍やトレードが頻繁で、それも急にあることも稀ではないのだといいます。
青木選手が言っていたのは、試合のために球場へ来たらチームメイトのロッカーが綺麗になっていて、急なトレードですでに出発したあとだったという経験。
遠征でアメリカ中を飛び回っている青木選手も大変ですが、子供たちを連れて新居を探す奥さんも負けず劣らず大変な世界でした。

 

青木宣親がメジャーの環境でしていた “リラックス方法” とは


出典:「https://www.sanspo.com/」

そんな過酷な環境の中で青木選手がしていた “リラックス方法” があるのだといいます。
青木選手は、メジャーリーグ生活でYouTubeをたくさん見ていたと話していたことがありました。

 

調子の悪い時は、色々な選手の動画を見たりしていたという青木選手。
そこからどんどん関連動画へ入っていって、面白そうだと思ったものを辿っていくと野球とは全く関係のないものを見るようになっていたのだそうです。

 

以前、ヤンキースの田中将大投手が、ニューヨークには “ジャパンTV” という日本の番組が流れているチャンネルがあるのだと言っていたことがありましたが、青木選手が初めの頃にいたのは、ミルウォーキー。
さすがに日本の番組は放送しておらず、情報はインターネットで得ることが多かったのだそう。

そういう意味でも、YouTubeは数少ない日本の環境に触れられる “リラックス時間” だったのかもしれません。

 

メジャーは奥さんが大変!?青木宣親の英語力と佐知さんの奥様会


出典:「https://blogos.com/」

メジャーへ渡る選手が苦労するのが、言葉。
青木選手はマリナーズ移籍の会見で、「I came seatle for the coffee.(コーヒー飲みにシアトルに来ました)」とジョークを言ったり、ファンイベントでも英語で盛り上げているシーンも。チームメイトとのコミュニケーションでも奮闘している姿がありました。

 

しかし、青木選手と同じくらい大変だったのが、奥さんかもしれません。
メジャーリーグの各チームには、”奥様会” というのがあり、チームの奥さんが集まって応援グッズを作ったり、ボランティア活動をしたりしているのだといいます。
アナウンサーをしていた人の中には英語が堪能な人もいますが、佐知さんはそうではなかったのだそうで、選手は通訳の方が付いていますがそれに比べて奥さんも負けず劣らず大変だったのかもしれません。

 

太ってしまう!?佐知さんの料理と青木宣親の食事情とは


出典:「https://instagrammernews.com/」

そんな奥さんが気をつけていたことは、食生活にも。
アメリカの生活では、食生活も気をつけないと、ピザなどジャンクフードが多くなってしまうのだといいます。
それを子供の頃から食べている人はそれで体調管理ができるけれど、日本食で育ってきた青木選手が同じ食事をすると太ってしまうのだそう。

 

青木選手のいたミルウォーキーのような街はあまり日本食レストランも多くなかったのだそうで、奥さんは日本の食材が手に入るところも探したのだそうです。
僕は以前、海外へ留学していたことがありましたが、その時ははじめに日本食材が手に入るお店を探しました。
お米は日本のものに近いものを教えてもらったり、ないものは日本から持って行ったり。
ミルウォーキーは日本の人も少ないのだそうで、探すのも難しかったのではないでしょうか。

 

以前、佐知さんが自身のブログで試合後の夕食をあげていたことがありました。
それは、夜11時に食べるもので消化に気をつけて作ったもの。
栄養面に気をつかって作った様子で、栄養面の勉強も。

 

逃れる術はなし!?青木宣親が語った “板前カット” とは


出典:「https://news.biglobe.ne.jp/」

青木選手がオフシーズンに帰国した際にある番組で話していた、”あるコト” で苦労したというエピソードが。
それはメジャーの環境で髪を切るときのこと。
青木選手は、メジャーへ行って髪型がおかしくなるのは仕方がないことなのだと話していました。

 

都市部でないと日本人で髪を切ってくれる人がいないようで、最初に滞在したミルウォーキーとカンザスシティにはいなかったのだと話していました。
日本人の髪の性質を知っていない人が切ると、どうしても “板前カット” になってしまうのだそうです。
メジャーにいた頃の青木選手は、周りの人から髪型を言われていたのだそうで、日本へ帰国するとすぐに髪を整えに行っていたのだと言っていました。

僕も留学した時に経験していて、髪型が変な感じになってショックを受けたのを覚えています。

 

メジャーリーグでは、球団によっては、球場に美容師さんが来ていたのだといいます。
美容師さんによってはバリカンだけで切る人もいて、癖っ毛の人にそれをすると良い感じになるのだけれど、直毛の人にそれをすると青木選手のいう “板前カット” になるのだそうです。

 

野球だけではなく、文化的な違いもメジャーリーグへ行った人でないとわからない経験になると思います。
2018年からヤクルトへ復帰した青木選手ですが、メジャーでの色々な経験がプレーだけではなくチームを牽引している力になっているのかもしれません。

 

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